神社・古墳めぐり / 尾張の式内社めぐり / 川原神社

川原神社

式内川原(かはら)神社の候補地は、古来、名古屋市昭和区川名本町4丁目4-11に鎮座する川原神社をもって、その遺存の社と考えられている。

当社の鎮座する川名村は、江戸時代には、御器所村の南に隣接し、名古屋から平針・拳母(豊田)に通じる飯田街道に沿った小さな集落であった。当時、川名、これに隣接する前畑、大藪は街道に沿って人家が並んでいたが、その周りは田畑がひろがっていた。

当地の開拓は、いつ頃始まったかは詳らかでないが、当社の東を流れる山崎川の利用によったと考えられていて、当地に縄文中期の檀溪通遺跡、古墳時代の長戸町5丁目遺跡(現在、古墳無し)、若宮古墳、奈良時代の遺物を散布する若宮瓦窯址(広路通1丁目)、川名遺跡(南部町)、また、長戸町には古観音廃寺遺跡が残されていて、古くから開拓が始まっていたと考えられる。

ただ、当社は古くから荒廃していたらしく、その社伝・由緒は古くまで遡って知ることはできない。

【由緒】

創祀年代は不詳。

中世には荒廃していたらしく、江戸時代には、「神明宮」と通称されていたが、地誌の編纂、式内社の研究に関連して、当社をもって式内川原神社に配されるようになった。

【祭神】

現在、日神、埴山姫神(はにやまひめのかみ)、罔象女神(みづはのめのかみ)の三神を祀る。

このうち、日神は、当社を神明社と称していたことに関連し、埴山姫神と罔象女神の二神は、延喜式鎮火祭祝詞に、川菜より出でたる神を埴山姫、罔象女の二神としており、これに因むものであろうと考えられている。

しかし、私としては、単純に、日の神、土の神、水の神の農業の三要素を祀っているのではないかと思う。
【祭祀】


【社殿】


社殿は、南南西向きに建つ。

昭和14年に本殿以下諸殿舎を造営したが、同20年3月の戦禍にあい、社務所、手水舎を除く他の建物は焼失したが、昭和27年1月、起工式を行い、焼失した社殿の規模に倣って再建した。

本殿は、流造りで千木・鰹木が載り、祭文殿、奏楽殿、神饌所、渡廊、透塀が造営された。

神紋は、「菊菱」。


境内に入ってすぐ、西側に大きな池があり、摂社の「辨天社(宗像社)」がある。
この社は、「川名辨天」の名でしられている。


社の、龍と鳳凰の飾りが美しい。


その他の末社についても、大きく表示されていた。


龍神社と川名稲荷社


川名社、若宮社・山ノ神・秋葉社、猿田彦社は、西面して建つが、川名天神社のみ南面して建っている。


津島社


池の中の小島に小さな社があったが、これが戸隠社だろうか?


残る1社の若宮八幡社は、末社が並んでいる境内の東側に、比較的大きな建物があり、神社名が表示されていなかったがそれがその社であろうか?


【参拝記】


2011年12月11日、名古屋東部の式内社を自転車で巡ったときに、川原神社も訪れた。

私は、小学5年生から大学入学で東京へ移るまでは、この近所に住んでいて、この神社は中学生のころ自転車で遊びまわっていた縄張りの内だった。

境内はけっこう広い。

辨天社の池には亀がたくさんいて、子供の頃はそれを眺めて過ごしていた。

境内の片隅に、石橋が残っている。